ひとり談義

ひとり談義 日本文芸家ク・ラ・ブ 関西支部会報 第5号

大阪の緑地公園に住み早や十年が過ぎた。
以前に住んでいた東横線の網島とは比較にならないほど自然が美しく、新幹線・空港など交通の便も良く住みごこちがいい。
その間にたくさんの人々との出会いや、出来事などがまるで走馬燈の如く思い出され、生きることの難しさ、厳しさ、複雑さを痛感してきました。
でも反対に最近は、かなり楽天的、しかも余裕綽々なる気持ちの大切さも感じ、そういう眼や感覚で、私の絵を中心とした人生なり世の中なりを見ると、また生きることが楽しく、愉快で面白くもなってきました。

 そんなとき、絵の世界に全くの素人が私の周囲には沢山おりまして 「そろそろ日展に入選ぐらいせんとダメや!」 「美術年鑑や美術名典に値段や絵の写真がのるぐらいにならないと ・・・ね!」
なんて、考えられないまるで馬鹿げた助言(?)などが大変煩わしくもなり、 そういう人達を得心させるために展覧会出品を決意しました。
 どうせ展覧会に出すのなら日本の日展より権威や歴史のある 「フランス国際美術大賞展」にしても、まあ入選ぐらいはするだろう という気持でした。 大作の百号・二百号出品をと思いましたが、パリーまでの搬入、 搬出、保険等が非常に高くなり、やむなく五十号「追憶」を 選びました。
 そのうち入選と同時にグランプリ賞候補ノミネートに されている旨の連絡があり、その後受賞通知が正式に届いた。
 助言(?)して下さった周囲の人々の喜びようは大変なもので、盛大な 「受賞記念パーティ」まで企画して頂く羽目になり、単純な気持で 展覧会に作品出品したことが結果的に沢山の友人、知人までも 巻き込み、ご迷惑を掛け大袈裟なことになってしまいました。

 しかし、私にとって絵を描くことは、あくまでも自分独自の対話の 世界であり、意志や感情を色や線で空間構成し、そのバランスの 中にポエジーやドラマを醸成する自己発掘作業であり、生のアカシ なのです。私独自の個人プレーであり、生涯を通して静かに、他に 迷惑を掛けず、おごることなく、継続することだと信じています。 数年前から画集出版と同時に大作をそろえた大阪展、東京展を 計画し、制作に没頭してきました。
 それは自分に対する挑戦でもありますが、没頭すればするほど 本当に沈んでしまい悶々と籠りがちになります。 絵を描くという作業は、生きることと同じく自分自身の内面との 戦いです。悲壮感も強くなり、暗くもなり、また才能のなさをまざまざと 思い知らされ、まさに葛藤の日々ですが、 持ちまえの楽天的な部分でかなりすくわれているかも・・・。

人類滅亡の危機 日本文芸家ク・ラ・ブ刊随筆手帳

私は数年前から、地球人類の滅亡と危機感を抱いており、そして 私自身は、地球が滅亡しても、我が五體が活動不可能となっても、 絵を描くや否や・・・と問い続けてきました。
 現代社会が急速に発展進歩していると言いながら、それに伴い、 二酸化炭素の放出などによる地球の温暖化、エルニーニョ現象に 見られる「自然破壊」!人々の「精神的レベルの低下」! 社会の多くの人達が金儲けに懸命になっている反面、人類は退化 ・滅亡の一途を辿っていると私は認識しています。 こんな時代に、私自身が何時まで生きられるのか?は皆目わからず、 人類滅亡の危機感がかえってエネルギーとなり、生きる気力と描く気を 奮い起こしてくれる。
 97年も残り少なくなり、1年を振り返るとヨーロッパ各展覧会を中心に かなりの作品を描き出品受賞しました。 来年度も各国からの招待出品の要請があり、振り回されがちですが、 あくまでも私にとって描くという行為は、私独りの対話の世界であり、 意志や感情を色や線で空間構成し、そのバランスの中にポエジーや ドラマを醸成する「自己発掘作業」であり、「生のアカシ」なのです。
 展覧会で受賞したのしないの、なんて問題外のことでありますが、 展覧会出品に追われることより、描く気力と客観的に自己及び作品を 見る場として当分は継続しようと考えています。

モラルのない日本を嘆く 平成25年3月11日記

絵筆を人生の伴侶として四十年も過ぎ、 長いようで短すぎる過去を振り返ると、 さまざまな出来事があり、その時々の心の叫びをキャンバスに打ちつけてき ました。肉体的には武道による古傷、頸椎の損傷、左腕の激痛、さらに右眼 の失明など満身創痍のなかで、このハンディキャップを愛しむマゾヒズムも 持ち合わせておらず、物の怪に憑かれたかのように描き捲るエネルギーにも 限界を感じる瞬間もあり哀しく逃避したくもなります。
過去数年間ヨーロッパ画壇で使い果たした、あのエネルギーは再び私の中に 戻ってきてくれるのだろうか?
描くことを生き甲斐と信じ、意のままに感情を色や線で空間構築していくこ とが私にとってのポエジーであり、ドラマであると夢語し、自己発掘の作業 であり、生の証であると叫び続けることが死ぬまで継続できるのだろうか?
地球という名の宇宙から見ると小さすぎて見えないような存在の私はいった いどこへ急ぎ走り続けるか?行き着く先や、そこに何があるのかは全く見え ないが人生を旅し続ける私は、急ぐことも焦ることもなく、格好をつけ構え て生きる必要もない。少し足を止めて一息入れて見るのも良し。
さて、そんな時期に3 ・ 11東日本大震災が突然に起こり、それに伴い原子 力発電所の大爆発で天災と人災が同時に発生してしまった。政局も不安定な 折だけに処置も遅れて大失態が目立つ。 そもそも私の生き様や信念は武士道尊び、心遣いや配慮・誠実さ求める。
武士道とは道徳、忠義、礼儀、勇気廉恥を重じる生き方であるが、現政権の 政治家、役人等には全くそんなものはない。そして政治のセンスや誠実さモ ラルを求めることなど出来ず、それを持ち合わせた人は皆無に均しい。
私の武士道を即、右翼呼ばわりされるが、右でも左でもない。こんな世の中 は見たくもなく、娑婆に出ず、コレクションの仏教美術の世界を観賞し、ア トリエに籠もり描いてる自分一人の時間がストレスもなく心地良いことか。
だが問題を沢山に抱えた日本の現状は無視できず、私にもそして国民のすべ てにかせられた解決しなければならぬ大きな課題が山積されている。
使用済核燃料の総てが処理もできず放置されたままで、震災から約二年にも なるのに被災住民や被害者には未だに保障や援助が不充分である。
いったい震災後に集った大援助金・支援金・私たちの寄付金の行方は全く不 明で、なんと出鱈目か。
普通の震災や事故ではなく「全人類滅亡の危機」にもつながる「核爆発」を 経験しながら、まるで他人事のように政府や電力会社、資本家たちは原子力 発電所の再稼働、さらに工事中の原子炉の建設をも推進しようとしている。 彼らの家族が被爆したり死亡したり被害の当事者であるならどうするのか? もう自己の利益や利権は捨てて純粋な政治や事業を成すべきだ。
日本の政治も混迷、混乱し、一日も早くエネルギー政策等の転換をしなけれ ばならない重大時期に、政治家は政権、選挙を意識した言動にはしり電力会社 の許し難い勝手な利益のみを考えた方針に驚きと恐怖を感じる。
問題提起したら無尽蔵にいろいろあるが、もう七十歳を迎える俺には何の成 す術もなく嘆かわしい。だが改革するエネルギーや情熱は日々湧き上がる。 そんな時に日本の現状を愁い立ち上った粋で男らしい政治家が二人も現われ 俺の好みの連中だ。石原慎太郎・阿倍晋三・西村真悟・若い小泉進次郎・橋 下徹 等々。
口先だけのコメンテーター、評論家、学者はたくさん居るが、私利私欲もな く実践、実行力が伴い抜群のセンスで日本の指導者にふさわしい。なるなら ないは別として、この様に勇敢で強烈な改革できる人材が今の日本に必要な のだ。
我が国固有の領土である尖閣諸島他の領土問題にしても他国(中国・韓国) の侵略に対し自分の領土や家族、家をも守れず、その術や度胸もない無能な 政府には日本を任すことはできない。
さて俺が今できることは、この日本人独特な下駄と作務衣姿で愛刀(河内守 国助作二尺五寸)を差し、巨大な日の丸「国旗」を尖閣の頂上に掲げて長期 間に渡り命がけの籠城をする。これしかなさそうだ。でもそんな行動をした ら、小心で臆病な政府や警察機構は慌てふためき、即この「大和魂の塊」た る俺を逮捕、監禁、排除し変人や悪人扱いをするであろう。こんな事を考え ながら武蔵境から東京駅に向う中央線で荻窪から乗り込んできた二十歳前後 のチンピラ風五人は周囲の乗客を全く気にもせず、カン高い声でガタガタと 騒ぎ喋りまくる。「夕べの歌舞伎町の子は何とかシロよ、面白かった。今晩も 行くか・・・」高円寺を過ぎた頃、その馬鹿者の一人が事もあろうにタバコ を吸いはじめた。さすがに他の仲間が「止めとけ」と周りを気にしながら注 意したが無視し止める様子もなく喋り続ける。そのうち全員でヒップホップ を踊り出したが、乗客達は遠巻きで見て見ぬふりを装いまるで他人事だ。反 対側の入口三人席の隅に座わり、その様子を見ていた俺だが我慢できずプッ ツンきれてしまい咄嗟に「こら~ッ止めんかい」もの凄い大声で怒鳴り つけた。一瞬に車内全体がシーンと静まりかえり、すべての目線が俺に集中 するのを感じながら、すかさず「吸い殻を拾わんかい」と大喝する。馬鹿者 五人は俺を睨みつけたが、威圧的な大声と人相で怯み反抗せず、タバコの吸 い殻を捨てた奴は、それを拾い俺を意識しながら新宿駅で降りたが、その後 が悪い。残された乗客の冷い目線に向ってまたまた大声で「皆んな 注意せ んか~い!」と怒鳴ったが、新宿から乗ってきた客は何が何んだかさっぱり わからず、馬鹿げた独り芝居で終った。
世の中に出るとこの様な光景が多々あり疲れる。女房には、こんな時に出交 した際は他人の振りをするように教えてある。
自分さえ良ければいい利己主義的、排他的な日本人が多く目立ち、周囲に何 が起きようが見て見ぬ振りを装い、我関せず。まして気遣いなんて期待もで きない。

嘆かわしいこの世をどうにかせにゃ!!